ある権利者側の人間の呟き3 ユーザー課金モデルに拘る理由:広告モデルで失う(かもしれない)もの

諸々話を聞いていると、どうやらGyahooはユーザー無料の広告モデルをベースにしていくらしい。そのためには今まで以上に広告を取ってくる必要があるわけで、そうなると取ってこられる広告の規模=サイトの規模になるわけで、主要なプレイヤーが複数いるより、一つにまとまった方がいい、という結論はうなずける。
Gyahooのようなオフィシャル(動画共有じゃない)な動画ポータルのメガサイトが誕生することで、ようやく、動画配信も期待先行から、ビジネスとしても成り立つものになる、というか「する」という覚悟=決意表明は立派だとも思う。(というか、Gyahooでもダメならオフィシャルな動画配信はもうダメだろう)。じゃあ、そうなった場合に、動画配信をめぐる環境、そこにいるプレイヤー(メディアとコンテンツホルダーとユーザー)の関係はどう変化するのか、その視点を忘れると、テレビが歩んだ道と同じ過ちを繰り返し兼ねない、そんな気がするので、自戒をこめて、書いてみる。
おそらく考えれるのは、メディア(ここでは動画配信サービス事業者のこと)とコンテンツホルダー(以下CH)の力関係が逆転するということ。これまでは、メディアはコンテンツを持っていないので、CHから、コンテンツを借りる必要があり、かつ、多数のメディアが競争している状態なので、ライバルよりもいい条件(CHにとってね)をCHに提示する必要があった。
それが、もしGyahoo一人勝ち?になると、CHとしては、Gyahooに出さなければ売上もあがらない事になる。ようは、売り場が一つで、そこに商品(コンテンツ)を置きたいCHが多数という状態。今度は、メディアの側が、コンテンツを選ぶ時代になり、CHは他のCHよりも悪い条件を受け入れざるをえなくなる。
ようは、これまでCHにとっての売り手市場だったものが、買い手市場になるということ。そうなると、CHという立場よりも、個々のコンテンツそのものの商品価値が物を言うようになる。で、ここでいう商品価値とは何かと言えば、それはもう勿論、広告モデルであれば当然「より広告が取れる」の一点につきる。
実はここが、「ユーザー課金モデル」にこだわる理由。テレビがここまでダメになってしまった理由の一つには、番組を作る側(テレビ局)が、直接番組にお金を払うわけではない”視聴者”ではなく、お金を払ってくれる”スポンサー”の方を向いて番組=コンテンツを作るようになってしまったこと、そしてその結果として、番組内容がユーザーの求めるものからどんどんかけ離れていってしまったことがあると思ってる。
もし、動画配信が広告モデルだけになってしまったら、テレビと同じ過ちを繰り返しかねない、そういう恐怖感、危機感がある。
例えば、賛否はあるだろうけど、深夜アニメバブルのころっていうのは、ユーザー課金=パッケージ販売(DVD)によって、ある程度製作費が回収できる、そういう見込みが立てられていた。だからこそ、あれだけ多くの有象無象のアニメ作品(それがたとえ玉石混交だったとしても)を世に送り出すことが出来た。それはことアニメ作品にとっては悪いことではなかったと思っている(アニメ業界としての、構造的な諸問題という観点ではまた別の評価になるが、ここでは割愛)。だって、ジブリやディズニーアニメしかこの世になかったらつまらないでしょ。
もちろん、これまでのアニメ作品のなかにも、玩具ありきの広告として製作されてきた、そういうものがあることは承知しているし、そういうアニメが全てダメな作品だったとも思っていない(ガンダムだって、魔法少女ものだってそう。でも作品としても評価されてるよね)。ただ、現状の、ユーザー課金=パッケージが売れず、製作費が改修できないという現実があり、そのカバーをすると期待された配信も、有料課金モデルが伸びず、広告モデルへと向うという流れを見ていると、「商売を抜きにした(いい意味でね)」好きな人だけが好きなアニメなんかは、今後もう作れなくなってしまうのではないか、それじゃあつまらない。
そんな危機意識が根底にあって、だからこそ、なんとかユーザー課金モデルでの動画配信ってのを根付かせたい、と思って日々頑張っているのだけど、現実はなかなか厳しい。有料配信で製作費全部回収なんて夢見たいなことは思っていないが、せめて打ち上げの費用ぐらいは稼ぎたいよね。。。